外語マガジンsakuya

「舞台の上で生きる」

“中国語で人を笑わせたい”。
人を楽しませることが大好きだった少年は
いつしか舞台の上に立っていた。

野村勇作プロフィール

野村 勇作
地域文化学科東アジア地域文化専攻中国語・2007-2012在学。
劇団道化 俳優

岐阜県出身。大阪府立千里高校国際教養科を卒業後、大阪外国語大学外国語学部へ入学。3年次から中国語劇に参加し、4年次には団長を務める。翌年、中央戯劇学院(中国・北京市)に演劇留学。卒業後は特定非営利活動法人「劇団道化」に就職し、現在は児童・青少年演劇の俳優として国内や中国で公演を行っている。

インタビュアー:菊池藍(夜/中国語 2011年卒)

ウケ狙いで始めた中国語

言語に興味を持ったのはいつごろですか?
もともと、母の影響でビートルズが好きで、英語が好きだったんです。ちょうど僕らが中学生のときっていうのは、2001年に9.11があり、イラク戦争が始まって…なんとなく「戦争やだな」って思いはじめたときで。そのころ、MONGOL800の平和を歌う曲とかが好きだったので、「それを戦場で歌って戦争を止めよう!」と思ったんです。中2くらいのときですね(笑)。でも、英語で歌わないと通じないな、と思って、当時英語を熱心に教えていた千里高校に入りました。
そんなきっかけだったんですね…!
でも、実際入ったら周りの英語のレベルが高すぎて辛くなって、なんとなくその夢も自然に消滅していきました(笑)。で、千里高校は高2から第二外国語を選択できたので、そんなに興味があったわけじゃないんですけど、中国語を選びました。
なんで中国語に?
お笑い芸人の中川家さんがやってますよね。あんな感じで、「完璧に中国人のモノマネができたらウケるんじゃないか」と思って、やり始めました。
ウケ狙いですか(笑)。
です(笑)。でも、いろいろ偶然が重なって、それが結果的に良かったんです。授業中、一番前の席で中国人の先生を観察することから始めて。そこでまず「なんか喉をよく使う言葉なんやな」とか、そういうことに気付いたりして。それからラッキーだったのが、発音の練習をたくさんできたことです。高校生にとっての第二外国語の授業って、格好の内職の時間になるわけですよ。誰かが寝てたり内職してたりで、授業が全然進まなくて。その先生も真面目な人やったから…「中国語はね、発音ができないとダメですよ」って言って…。
インタビュー風景
それは進まないですね(笑)。
そうなんです。だから毎回、授業の最初に発音をひと通り練習するっていうのが半年ほど続いたんです(笑)。でもそのおかげで今、中国で褒められるんですよ。
発音上手いですねって?
はい。たまに中国語でばぁーっと喋ってて、「えっ、日本人なの?」って言われると「よっしゃー!!」ってなります(笑)。
すごいなぁ。そして、完璧に中国語をマネするっていうのはできたんですか。
まだですね。発音に関してはある程度できてる自負はあるんですけど、仕事で通訳をすることもあるので、まだまだ全然だなって思います。今も勉強中です。

食わず嫌いだった語劇

大阪外大に入ろうかな、と思ったのはどうしてですか。
周りの空気です。千里高校は英語に力入れてたし、箕面キャンパスとも近いし、進学希望者が結構いたんです。だから僕も、「外大行くんやろうな」って思ってました。本当は英語が良かったけど、偏差値が足りなかったので中国語にしました。
入学してみて、どうでしたか?
自由だなって思いました。高校3年間、無遅刻無欠席で真面目にやってたんで、大学ってサボるのがありなんやなぁって(笑)。全然勉強しなかったんですよね。中国語はもうアドバンテージがあったから、すでに発音上手いし勉強しなくても大丈夫って感じで(笑)。サークルで野球ばっかりやってました。
うわぁ、できる方の人ですね(笑)。それでも単位落としてないってことですもんね。
高校時代のように大学も真面目に過ごしていれば…もうちょっと違った今があったのかなぁと思ったりもします。
留学しようとは考えましたか?
考えてなかったですね。北京や上海、武漢には旅行で行ってたんですが、短期間は良いけど、長く住むところじゃないなあと思って。
その後、語劇に関わろうと思ったのは何故でしょうか。
実は、それまで中国語劇を一度も見たことがなかったんです。食わず嫌いというか…なんか住む世界が違うだろうなって思ってたんで。でも当時、好きだった女の子が語劇をやっていて、その子に誘われたんです。あっさり入ることにしました(笑)。
そうだったんですね(笑)。
役者として入ったんですけど、僕は脇役だったんで、手伝いみたいな感覚でやってました。それが夏休みのある日、主役の子が突然、「辞めたい」って言い出して…。急遽配役を組み直して、途中から主役の王様役になりました。
そこから語劇に対する姿勢が変わったんですか。
そうですね。同い年の役者ですごい演劇好きな子がいたんですけど、その子と一緒にやってるうちにだんだん面白くなってきて。『胡風漢月』っていう西暦200年頃の話を題材にした芝居だったんですけど、そんな時代にタイムスリップして演じられるということも気持ち良かったです。翌年の『茶館』という舞台でも、あるひとりの男の人生に自分を寄せて、役になりきるのは面白いなぁって。楽しかったです。役者だけでなく、裏方の、衣装・道具・照明・字幕・広報のメンバー全員が「観客を楽しませよう」っていう目標に向かって頑張って、チームでひとつのものを創り上げるっていうのが。
4年生のときには、団長をされたんですね。
そうです。「やだなあ」と思いながら(笑)。僕、あまりリーダーに向いてないんですよ。全体のことに目をやるのが苦手で。『茶館』は、登場人物がすごく多い芝居で、役者は全員で20人くらいいたかな。ひとり3役とか演じる人もいて。人数が多いから稽古のスケジュールを合わせるのが大変で…、でもそれが面倒でちゃんとやらなかったんですよね。それをほったらかしにしてたら、本番が近づいていよいよ「やばいぞ」ってなって。最終的に箕面キャンパスで合宿をしました。それから中国語劇団は毎年合宿をするようになったんですよ。悪しき伝統を作ってしまったと思っています(笑)。
インタビュー風景
伝統になってるんですね…!合宿をしようと思い立ったのは何故ですか。
とうてい間に合わなかったからです。なので無理やりキャスト全員集めて、集中して稽古をしようと思って。本番前日も、全員で最後の通し稽古をやったんですけど、そのときになって僕、泣いてしまって。「もっとできたことがあったのに、これくらいにしかならなかった」って悔しくて。でもそんな僕の姿を見て、発奮してくれた団員がいて…、本番はとても良かったみたいです。
本番終わって、どうでしたか。
「あーよかったー。終わったー。」って。みんなが作品を面白くしようって頑張ってくれたことがすごく嬉しくて。でも今振り返ると、ひとつの作品を思い切り自由に創れるなんて、こんなに面白い仕事ないのにな、って思う。

演劇留学と卒業制作

当時4年生ですが、就活はどうしていたんですか。
「どうしよう」と思ってました。一度就活で挫折していたので、「あんな辛いこともうしたくない」って。『茶館』のときの同世代のメンバーは留学から帰ってきたばかりの人か、既に内定が出てる人でした。そんなときに、所属ゼミの深尾葉子先生が語劇の『茶館』を見て、僕の芝居を絶賛してくださって。「日本人がそこまでできるのは凄いよ。ちょっと本場で見せてきたら」って。
へえ!すごいですね。
インタビュー風景先生が「演劇の大学なり、飛び込んでみたら」って言ってくれたので、半年間休学して、中央戯劇学院に留学することに決めました。
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周りの反応
友達に「向こうで俳優やろうと思う」みたいなこと口走ったら、「無理じゃね?」って言われました。全面的に応援みたいな感じじゃなかった(笑)。親は、最後の猶予期間って感じで「それ終わったらちゃんと就職しいや」みたいな。お金も出してくれたし。感謝しています。
留学はどうでしたか。
2011年の3月に向こうへ行って、6月末まで留学してたんですけど、、、あんまり勉強せずに飲んでばっかでした…。
なんと…!
中央戯劇学院って、芝居のエリートの大学なんです。けど僕は留学生枠。しかも飛び込みで入ったから、本科の人みたいにどんどん芝居に出て…みたいなのはなくて。自分たちで芝居創って自主公演したりはしてたんですけど、「これじゃないな…」と思いながら過ごしてたら、終わっちゃった。
授業で演劇のことを教えてもらったりはしなかったんですか。
ちょっとだけ。でも、ほとんど中国語の授業ばっかりで、芝居のことはあんまりなかったです。でも留学生のなかには、中国に長くいてコネを持ってる人もいて、いろんな芝居に呼ばれたりしてました。僕もそういうコネを伝って、「北京で演劇のことならこの人に聞け」って日本人の方と知り合うことができて、舞台の仕事を紹介していただいたりしました。それが卒論にもつながったんです。
卒論ですか。
中国では毎日、抗日映画とか抗日ドラマが放送されてるんです。その映画とかドラマの撮影って、ほとんど北京近郊で撮影されていて。周りの日本人にも、出演している人が結構いました。
抗日映画の日本兵役ってことですか。
そうです。僕は、避けてたんですが…。でもあるとき、「チャンイーモウ(*1)が抗日映画を撮るから、アフレコできる日本人を探してる」っていう話を聞いて。抗日映画は出たくなかったんですけど…ビッグネームだったので「出ます!」って(笑)。 *1 チャンイーモウ 張芸謀 中国の映画監督。代表作に『紅いコーリャン』『単騎、千里を走る。』など。
(笑)
土日ずっとスタジオに詰め込まれて、名もなき日本兵たちのアフレコをやりました。っていっても、「おらぁ!」「馬鹿野郎!」「行けー!」とか、そんな台詞ばっかり。あと鼻息も録りました(笑)。
実際にやってみてどうでしたか。
楽しかったです。でも、いくつか残虐なシーンがあって、きつかったです。そのときに、「あぁこういう世界があるんだ」っていうことを知って。その後、抗日映画に出演する日本兵役専門の役者がいるってことを知ったんです。それで、帰国してからそれを台本にしました。
台本に?
中国ではそういう日本兵のことを「鬼子(グイズ)」ー鬼の子ーって呼んでさげすむんです。その「鬼子」を演じる仕事をしている日本人って、どんな気持ちでやってるんだろうなって思いながら、そんな人たちにスポットを当てた台本を書きました。深尾先生のゼミってとても自由だったんです。卒論で漫画描いてる人とかもいたし。インタビュー風景それで僕が台本を書きたいって言ったら、それを卒業制作にして良いよって言ってくださって。
すごい、異例ですよね。
皆が卒業論文を書くのと同じように、僕は台本を書いて。皆が諮問を受けるときに、僕は台本を芝居にして、上演をしました。
役者は誰がやったんですか?
卒論を書き終えた友達に、「ちょっと手伝って」ってお願いして。周りにもかなり苦労かけました。そういえば、このときも合宿をしましたね…(笑)。結果、作品としては不完全燃焼だったんですが、みんなの頑張りのおかげで、先生に褒めていただけました。
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『被叫做鬼子~鬼子と呼ばれて~』
前編は中国語、後編は日本語という構成の台本です。僕自身の留学中の経験も生かして書きました。そのときもギリギリまで芝居が完成しなくてほかのスタッフに怒られて、結局合宿したんですよ(笑)。
そして、2012年に卒業ですよね。
はい。卒業して、フリーターになりました。就職は決まってなかったけど、その年の7月に劇団道化―のちに就職することになる劇団です―の仕事を手伝うことが決まっていたので、まいっかぁと思ってました。
「舞台の上で生きる・その2」へ続く
次回は、劇団道化との出会い、そして俳優の仕事について伺っていきます。
次回更新は9月末です。

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