外語マガジンsakuya

「特殊言語を使って生きる」

自分にとって大切なものを教えてくれたモンゴル。
現地の子どもたちとの出会いと、就活での挫折。
NGO、派遣、アルバイトとさまざまな職を渡り歩きながら
モンゴルと教育、そして自身の可能性の道を探り続けた。

梅野愛子プロフィール

梅野 愛子
国際文化学科比較文化専攻モンゴル語・1999-2004在学。

神奈川県横須賀市出身。大阪外国語大学卒業後、東京外国語大学大学院に進学。国際協力系団体でのアルバイト、派遣社員、NGOスタッフなどを経て、在モンゴル日本大使館の専門調査員となり、その後(財)国際協力センターJICEのJDS事業モンゴル事務所のカントリーオフィサーに。現在は防衛省国際政策課能力構築支援室の専門員として、モンゴルでの道路構築技術の教育現場をコーディネートしている。

インタビュアー:菊池藍(夜/中国語 2011年卒)

想定外のモンゴル語

いきなりですが、モンゴル語の成績は良かったですか?
悪かったですよ(即答)。国際文化学科だったので成績順で専攻語が決まるんですけど(*1)、モンゴル語は第5希望くらいにしていたと思います。はじめは何でモンゴル語なんだろうって全然興味が湧かなかったんです。テストのたびに文法も勉強したりして…今思えばちゃんとやっておけばよかったなあ…。
*1 旧大阪外国語大学時代の国際文化学科では、入学試験の成績順で専攻語が振り分けられるという方法が採用されていました。受験時に学びたい言語を第1希望から順に用紙に記入し、成績上位者ほど希望度の高い選考語を学べるという仕組みです。合格したはいいが希望順位の低い言語を専攻することになり絶望した学生も少なくありませんでした。
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言語が身近にある生活
地元の横須賀はすぐそばに米軍基地があったので、基地の中で英会話教室を開いている奥様とかがすごく多かったんですよね。英語そのものが身近だったから周りはみんな英語が好きだったんだけど、私は逆に英語じゃない言語っていうものにすごく興味が湧いて。それで外国語を学ぼうと思いました。
留学はどうでしたか。
最初の一週間で生まれて初めてホームシックみたいになっちゃって。私、海とか水が見えるところじゃないと生きていけないってことに初めて気がついたんですよ。どこに行っても大丈夫だと思っていたから、ちょっと自分でも自分が信じられなかったです。その年の夏がすごい干ばつで、雨がまったく降らなくって、空気はただでさえ乾燥しているのにさらにパサパサで、草原も茶色くて「全然綺麗じゃない!」と思って。本当に「水のあるところに帰りたい」って思ってました。
雨も雪も降らなかったんですか。
インタビュー風景 そうなんです夏の間中パッサパサだったから、これはもうダメだ、いつ帰ろうかな、ってずっと考えてました。7月から留学して、もうあと1週間くらいで帰ろうって思いながら過ごしていた9月に、通っていた語学学校で「幼稚園で日本語の先生しませんか」っていうアルバイトの張り紙を見つけたんです。

モンゴルの子どもとの出会い

幼稚園で日本語の先生。
そうなんですよ、それをやろうって思って。幼児教育とか何も知らないんですけど、行って教えることになっちゃって。そしたらあら大変(笑)。もうすごいんですよ、向こうの子どもってエネルギー満タンで、1クラス40~50人くらいの大所帯だし、3歳くらいのじっと座ってるのがやっとみたいな子どもたちばっかりなのに、それに日本語教えろっていうの(笑)
梅野さんが留学されていた2002年頃は、モンゴルでは日本語教育が盛んだったんですか?
盛んでしたね。そのときはとくにこれから経済成長するぞって時期で、日本語勉強したいっていう人がたくさんいた時代でした。その幼稚園も国立なのに日本語を教えていたんです。そこでの経験がすっごく楽しくて、いろんなことが勉強になりました。日本語のこともよく考えるようになったし…これがきっかけで大学院でも児童文学をやることになったんですよね。ここで人生狂ったんかな(笑)
(笑)どんなことがあったんですか。
とりあえず日本語を教えるといっても、自分はさらっと母国語として話してきただけだったから、幼稚園児に何を教えたら良いんだろうって思って。モンゴルの教育大学に日本図書館っていうところがあったので、そこに行ったら福音館書店の『にほんご』っていう本を見つけたんです。あれはすごく良い本ですよ。「あ、これなら教えられるかも」って思って、そのなかに載っている詩を子どもたちに暗唱させたりしてました。幼稚園児で、どうせ小学校に入ったら忘れちゃうかもしれないんだったら、とりあえず挨拶ができて、あとは「モンゴル語の音が好きなんだよね」っていう私と同じで、そういえば幼稚園のときに日本語を喋ってたけど「音が可愛かったな」くらいに身体に染み付けばいいんじゃないかなって思ってました。でも、子どもは全身で教えないと聞いてくれないし、伝わらない。毎回やるたんびに学級崩壊で、あの経験のおかげで自分の殻がパカって破れた気がしています。
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自分の殻を破る
「大きな声で日本語を話しましょう」とかもやりました。私生まれついて声が小さいんですよ(笑)。なのに一生懸命叫んだりして。色のついたカードを使って、カルタみたいに「“あか”って言ったら赤色のカードを取るんだよー」って説明して、でっかい声で「あかー!!」みたいな。なにやってたんだろうなぁ(笑)
でもそういう詩とか、小さいときに繰り返し発音した外国語ってすごく覚えてます。私も小学生のときに歌った韓国語のリムジン河、めっちゃ覚えてますもん。なんだか分かんないけどこの音は覚えてるぞ、みたいなのあるかもしれない。
え~そうですか!みんなの心の片隅にも、残ってたらいいですね。
もともと子どもが好きだったんですか?
好きだったんだと思います。モンゴルの子どもってむちゃくちゃ可愛いんです。なんでそんなに可愛いんだろうって思ってました。どうやって育てたらこうなるの?って(笑)
どんなところが可愛いんですか。
一生懸命生きている感じがすごくって。なんていうかな、うまく言えないんだけど、あの舌っ足らずなモンゴル語で――モンゴル語って巻き舌とかもあって、いろんな発音が含まれている言語なんですね――「せんせい、○○くんがあ」って一生懸命先生に訴える感じとか…、ものすごい可愛かったですねー。先生たちがすごいおっかないから、みんなたぶん幼稚園にくるのが大っ嫌いだったんですよ。ほんとは家でお母さんと一緒にいたいんだろうけど、我慢して毎日幼稚園に行って…彼らも戦ってるんだなーと思うと健気で…(笑)
幼稚園の先生は何ヶ月くらいやっていたんですか。
インタビュー風景 留学自体が半年だったので、12月で帰国しなくちゃいけなくて辞めました。4ヶ月だけだったな。それでも強烈にいろんなことを考えさせられたので、すごく貴重な4ヶ月でした。自分が子ども好きだってことも、水が見えない場所だと元気がでないことも、それまでよくわかってなかったんですよね。モンゴルはそれを教えてくれた国ですね。「あなたはこういうのが好きだったよね」っていうのを見事に出してくれたというか。
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留学時代からの大親友
インタビュー風景 学生寮に住んでいたので、水が停まった電気が停まったゴキブリが出たとかいいながら、みんなで毎日サバイバルしていました。私の年は留学した同期が珍しく多くって、5人くらいいたかな。そのうちの一人はモンゴル人と結婚して、今もモンゴルに住んでいます。いまだに大親友で、行く度に会ってはいつも話を聞いてくれて、仕事で大変なことがあると助けてくれて、本当に感謝しています。

就活での挫折

12月に帰国して、逆ホームシックとかならなかったですか。
なりましたよ!とりあえず日本社会に適応できなくなっちゃってたと思う(笑)
どんなふうに…?
帰国してすぐ就活しなきゃいけなかったんですけど、まず頭の切り替えが全然できないまま就活をしてたら、本当に身体を壊してしまって、精神的にもすごく辛かったですね。
どんな就活をしてたんですか。
そのときは、モンゴルで出会った福音館書店の『にほんご』という本の影響もあって、児童文学の出版社に入ろうかなと思っていました。でもすごくハードル高いし、倍率も高いですよね…。しかも、就活をしながらずーっと引っかかっていたことがあって。日本には本がいっぱいあるじゃないですか。子どもの本もあふれていて、それこそありすぎて売れないくらい。自分はそんな日本社会でどうすりゃいいの?って思ったんです。モンゴルが出版社も少なくて、児童文学も書く人がいなくなっちゃってるなか、私は日本の出版社に就職することにどういう意味が持てるんだろうってずーっと考えていて。ちょっとずつ引っかかりつつも、でも就職しなきゃと思って一生懸命就活してたんですけど、それが辛くて心と身体がバラバラになっちゃって。志望していた福音館の採用試験で、役員面接までたまたま進んだんですけど。
えーすごいですね!
でも結局ダメで、落ちてしまいました。そのとき引っかかっていたものが最終的に取れなかったんだと思うんですよ。それで、大学院でモンゴルの児童文学を研究するっていう選択肢がストンと落ちてきたというか。大学院行こうかな、って。親にはすごい反対されましたけど、もうこんなバラバラな状況で、身体も心もしんどかったし、本当に辛いから働けない…って。ダメな人だったなあ。自分をダメな人だとすごく責めてたんですね、そのとき。でも大学院に行ったら、…ものすごく楽しかったんですよ!(笑)
(笑)
やりたいことだけやるっていうのはこんなに楽しいのか!って。本当に楽しかった。

大学院時代

東京外大の院に進まれたんですね。
東京外語に岡田先生というモンゴル文学の先生がいたので、面識はなかったですけどいきなり電話して(笑)、大学院受験の時期に間に合わなかったので「研究生で入りたいんです」って伝えました。そこで1年間研究をしながら受験勉強をして、2005年から大学院生になりました。
モンゴルの児童文学研究では、どんなことをしていたんですか。
ひたすら全部読む。図書館で読める本は一通り読もうと思って、古いのから新しいのまで読んでいって…一つひとつにカードを作って、面白くないとか面白かったとか、この部分がどうだったとか記して、作家ごとに分けてファイリングして…後は現地で古本を手に入れて、読む。
すごい作業ですね…!どういう内容のものが多いんでしょうか。
基本的に社会主義(*3)の児童文学ってつまんないんですよね。いい子でいましょうね、おかたづけをしないとこうなりますよ、とか、お母さんのいうことを聞かないとこうなりますよ、とか、だんだんそういう傾向が強くなっていくんですよね。 *3 1924年~1992年まで、モンゴル国は社会主義国家「モンゴル人民共和国」でした。
年代を経るごとにですか。
インタビュー風景 そうですね。それがたぶん国内の社会主義の成長と伴っていたんだろうなと思っています。
新たに書かれた話もつまらないんですか?
民主化以降ですよね。それが、社会主義時代って芸術家も政策の一環で作品を作ってるんで、結局政府がポシャったことによってみんな作品を書かなくなっちゃったんですよね。と私は理解しています。でもそれは偽物の芸術家ですよね。なんで書かないの?って思います。本物の芸術家だったらいかなるどんな時代でも書くべきだろって。
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現代のモンゴル児童文学
友人にバーサンスレン・ボロルマーさんという絵本作家がいて、彼女は日本で活躍しています。日本語の絵本もたくさん出ていますよ。彼女みたいに絵本にしたらいいだろうなという画家は結構いますが、児童文学っていう分野では、いまだにあまり作家はいないんじゃないかと思います。ただ、その代わりに今は世界の児童文学がモンゴル語に翻訳されています。日本でも色んな国の文学を読むでしょう。そういう翻訳が盛んになってきて、世界の名作童話全集みたいなものが競い合うように出版されるようになりました。
どういう修士論文になったんですか?
それを話すと長くなりますよ(笑)。自分の修論を説明するのって修論の面接以来だ…。私が出した結論は、結局ものすごくつまんないってことなんですよね。
(笑)
それをどう処理していいかわからないわけですよ。イギリスやアメリカのように素晴らしい児童文学が生まれているならまだしも、つまんないものをどう結論づけたらいいんだろうって。児童文学に限ってなんでこんなにつまらないの、子どもが面白くなくなっちゃうのって考えてたんですよね。この明確なつまらなさは…
インタビュー風景
めっちゃつまらないって言いますね(笑)
もうだってね、怒りが込み上げるほど、つまらないの(笑)。図書館でひたすら読んでて「なんだこの結論は」みたいな。つまらない、苦痛でしかないですからね。それで結局児童文学って、作品のなかに必ず「まなざし」があるんだっていうことを結論にした気がします。児童文学のなかに描かれる子どもって、良くも悪くも大人が見た子どもなんですよ。だから文学のなかには子どもと大人の関係性が現れるものなんじゃないかって。大人の中の子ども「観」がでてくるんですよね。見つめている目の問題なんです。児童文学はそういう、子ども、行き着くところの人間の在り方への「まなざしの文学」なんじゃないかって。でもそれはまだまだ、私の修論では未熟な問いの途中なんです。でもその結論に至ったときに思いました。いままで図書館にこもって作品ばっかり読んできたけど、自分の出発点は幼稚園だったじゃないですか。モンゴルの子どもはあんなに可愛くて、あんなにエネルギッシュで、いたずら好きで毎日怒られて泣いては幼稚園にきて、先生たちと戦っていた彼らが、彼らのあの素敵な姿が、読んでいた作品にはいないわけですよ。
あああなるほど。
次は現実の子どもと会う機会を持ってみたいっていう思いが生まれてきたんですね。とりあえず修論は、ここで筆を置くか、みたいな(笑)
子どもたちに会いたくなっちゃったんですね。
そうですね、会いたくなっちゃったんです。それで国費留学のための奨学金を申請したんですが、なんと小さな記入ミスで受理されなかったんです。そのときは頭の中が真っ白になりました。
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第二の挫折
当時、通称「ウランバートル大学」と呼ばれていた、ウランバートルにあるモンゴル国立大学に留学したかったんですが、書類に「ウランバートル大学」と書いたら、私立で同じ名前の大学があったらしくて。「国費留学なので私立に行きたいなら奨学金は出せないよ」って言われて、びっくりしました。「私が行きたいのは国立の大学です」って言ったら、「もう本国で結論が出たのでダメです」って。

NGOでの活動

そこからどうしたんですか。
でもまあ、とりあえず働くかーと思ったんです。自分のできることからと思って、途上国の画家のための絵画コンクールを主催していた国際協力団体でアルバイトをはじめました。日本国内で一番モンゴルの児童文学に近いところで、という気持ちでしたね。それが私の社会人としての――WordとかExcelとか使って、資料作ったり、という仕事の――スタートでした。そこで知り合った方が、モンゴルの孤児院に奨学金支援をしてるNGOがあるよって私に教えてくれたんです。それまでなんとなく自分の頭の中に漠然とずっとあったのが、モンゴルには幼稚園で教育を受けられる環境の子もいれば、ストリートで暮らしてる子どももいるので、孤児向けの奨学金制度があったらいいなっていうことでした。自分が以前から考えていたことをやっているNGOがある、しかも連絡をとってみたら、東京外語のモンゴル語の子たちも手伝っている団体でした。そこからNGOの活動をするために働く生活が始まりました。
NGOのために働くとは?
ウランバートル市内のゲル地区にある学童保育を見学

ウランバートル市内のゲル地区にある学童保育を見学

お給料が払われてスタッフとしてできるような規模のものではなかったので、一方でモンゴルに関われるバイトや派遣社員をしたりしながらお金を稼ぎながらも、でもNGOの活動が本職のような気持ちでいました。このNGOとの出会いはすごく大きかったです。モンゴルには高校を卒業して18歳になったら孤児院から出しなさいという法律があるんですね。そうしないとさらに幼い子たちが入って来られないから。それに集めた寄付金でやっと運営している孤児院としては、卒業後の面倒まで見る余裕がない。そこでその子を一歩上の教育段階に上げてあげれば、その先も少しは就職に強くなって、自立の為の一歩になるんじゃないかという考えのもと、大学の学費としての奨学金支援をしていたのがそのNGOでした。私、その奨学金のシステムがすごく好きだったんですよ。一見お金だけあげるようですごく冷たい感じがするんですけど、その子の大学合格って自分の力で勉強したり努力したりして掴んだ入学切符なわけじゃないですか。「あとは思いっきりやっておいで」って、好きなようにやらせてあげるのが素敵だなあと思って。お金を学費に使うって、つまりその大学のなかでの時間やいろんな出会いや、その子のこれからの人生の全然違う扉が開く可能性をつくってあげられるってことでしょう。だから、支援にはいろんな形があると思うんですけど、チャンスが生まれるっていう意味では一番良い形なのかなって、私はそのとき考えていました。
でもNGOの活動のほかにバイトや派遣もって、毎日大変ですよね。
日中働いて、家に帰ってきてから夜中までNGOの仕事して、孤児院の子たちが練習した馬頭琴のコンサートを日本で開催したり、モンゴルに行ったり…本当にすごく大変で、ちょっともうしんどかったんですよね。28歳くらいからそれに関わって、30歳になるってなったときに、30歳を目前にした壁がやっぱり自分にはあったわけです。もう働きながらNGOは無理だ、と。自分で自分を支えられないのに人の支援はできないだろうって、そういう疲労感みたいなものも出てきて、走り続けられなかったんですよね。もう30歳になっちゃう、と思って。「じゃあ20代でやり残したことは何?」って振り返ったときに、やっぱり「留学期間半年」っていう短さが、私にとっては一番やれていないことだったんです。大学院の後の国費留学もできなかったし、「長期でモンゴルに行ってみたい」っていう漠然とした思いがでてきたんですね。
なるほど。
インタビュー風景 それで思いついたのが、働いて、なおかつモンゴルに長期滞在できる道…、在モンゴル日本大使館の専門調査員という仕事だったんですよね。そのときはまさか受かると思ってなかったです。留学してから10年経とうという年で、よく合格させてくれましたよ(笑)。感謝しています。
「特殊言語を使って生きる・その2」へ続く
次回は梅野さんの大使館時代と民間団体在籍時代、そして防衛省入省後のお話をご紹介。お楽しみに!

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